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旅のラゴス

筒井康隆

新潮文庫 /1984年

  • 読み手:  ペンネーム焼肉は塩で

     その日、私は旅をした。
     軽いトイレ休憩をはさんで、正味四時間の旅だ。
     しかしまぁ、旅という言葉を使うのは適当ではないかもしれない。自室の机からトイレ以外に動いていないのだから。いやしかし、やはり私は「旅」をしたのだ。自身の想像力でもって、ラゴスと共に。それは作中の言葉を使えば、「転移」と言った方が適当かもしれないが。

     『旅のラゴス』を読んだ。
     何度も見かけた事のある本だった。大抵は書店の店頭、それも入口すぐ辺りで。季節ごと、特に長期休暇付近で○○フェスなどと銘打っては、おすすめ本として売り出されている印象の強い本だった。私はその度に目をやり、また時には手に取って、そして棚に戻すのが常だった。理由は私の捻くれた天邪鬼さであり、大した事も無い臆病さだった。第一印象で気になった本も、その裏表紙のあらすじやパラパラと捲った本文に目を通して、今はまだいいかな。なんて何に対する言い訳かもわからぬ思いを抱きながら元の場に戻した事くらい、誰にだってあるだろう。ただその回数が、私は多かったというだけの話だ。
     ラゴスと共に旅をした感想と言えば、いい旅だった、と。これに尽きる。別にいい事ばかりが起きたわけでは無いからこそ、彼の旅の一部分をここで抜粋して論じる事はしたくない。しかしそれでは、この文章を書き始めた意味を見失いそうだ。仕方ないから、あくまで自分がこの本を「第一印象で気になったのは間違いなかったぞ!」と思えた箇所を簡単に連ねておこう。
     ラゴスの人となりは序盤から明確でありながら、彼の人間性は彼と共に旅をしていくうちに少しずつ見えてくる。主人公にわかりやすさとわからなさが備わっている状態は、のめり込みやすさを助長する。彼が老成し、故郷に近づいてからやっと、ラゴスの幼年期や性格形成が分かって来るのも、旅に出た若者が経験を積んで戻ってくるという、ド定番の型版の上にある筈の物語に全く飽きない理由の一つだろう。また、途中で明らかになる彼の旅の目的がはっきりしている事も行く末を見たいという思いを加速させる。その目的を達成した事が、後に実績として結果に出る部分も展開の不明瞭さを残さず気持ちがいい。「旅することが旅の目的」なんて言う、すわ自分探しの旅行気分野郎の自己満足もかくやといったモラトリアムに付き合わされている気分を、全く味わわずに済むのだ。だが。だが、ラゴスの旅は目的を達成した所では終わらない。ラゴスが故郷に帰っても、終わらない。そこもまた、ミソなのである。
     ここまで振り返ってふと、はて『旅のラゴスは』SF小説だったのでは?と言われると、一瞬は不調子の機械の如く停止してしまう。しかしもう一度ゆっくり動き始めて、問いかけ直してみれば、確かにこれはSF小説だと言える。超自然的な能力や理解の及ばぬ仕組み、異空間と異時間が交差する中で、ラゴスは現在の文明と未知の世界を繋ぐポインターであり、実際に心身ともに「トリップ」する人間だ。ラゴスという、他でもない彼の一生を通すからこそ、この本はSF小説として成り立ち、また冒険小説に成り得、ラゴスの伝記にさえ成り得るのだろう。

     旅の終わりは、旅の始まりでもある。
     図らずも現在、外出を控えなければならない時勢だから故に、『旅のラゴス』を読んだ事を「旅」と表したわけでもない。あれは旅だった。
    しかしあえて読了後の今の気持ちをこう表そう。私は、次の旅に出てみたくなった。

    『アーヤと魔女』という本がある。
     わかっている。ある一冊について語る文章を書く際、他の本を引き合いに出すのは、それが比較や引用の考察などではない限り、大分無粋だというのは。
     だが気分を悪くせず聞いてほしい。何故なら私はこの本を、まだ読んでいないからだ。
     好きな本というのは多くの人が持つものだが、私はある時期この本の作者が書くファンタジー小説に心酔していた。作者の名はダイアナ・ウィン・ジョーンズという。ラゴスが移住者の歴史を学ぶ際、愉悦が大きくなりすぎる事を不安に思って文学を並行して学ぶのを避けていたように、私も自らに図書館で一回に借りる彼女の本の冊数を制限していた事まである。当時小学校高学年だった私は中学に上がり部活動が始まって以来、図書館に通う回数も減っていき、いつしか彼女の本に触れる機会はめっきり無くなった。
     あらかた読みつくしたと思っていた彼女の本『アーヤと魔女』の存在を知ったのは幾らか前の事だった。しかし私は、『アーヤと魔女』を読もうとしなかった。怖かったのである。思い出とは、美化されるものだ。それが良い思い出で、且つ思い出す頻度が多ければ多いほど。私は幼年期に読み、魅せられた彼女の世界観に、文章表現に、あれから時がたった現在の感性で向き合う事を恐れた。例えば雪が降っても全く喜色を浮かばせず、げんなりするだけの感性で。中年期のラゴスが、かつて少女だったデーデとの再会を希いながらも、その再会が惨めな結果、つまり互いに失望する事が無いようにと思っていたのと同じだ。私は、きれいなものはきれいなまま自分の中に取っておきたかった。
     それは、『アーヤと魔女』を『旅のラゴス』と共にブックツリー企画を機に読もうと考え、本が手元に届いてもなお変わらなかった。こんな機会ないぞ、と意気込んだのにもかかわらずだ。
     全く、『旅のラゴス』を読まずにいた時よりさらに酷い。
     しかしながら、ラゴスと共に旅をした今、私はやっと、一歩踏み出し、その「転移」に挑めそうなのである。シュミロッカ平原に舞い戻った時、ラゴスは結局デーデとは再会できなかった。それどころか、自分と離れてからのデーデの不幸な運命を知った。そしてまた旅を続け、故郷ですべき事柄を全て済ませた老年のラゴスは、またデーデとの再会を夢見て旅立つのだ。彼の脳裏に描かれるのは、いつまでも少女のデーデであった。ラゴスはデーデとの再会の確証も彼女が少女のままで居る事も決して無いとしっかり理解している。それでも、デーデを想い戻る事の無い旅に出たラゴスは満たされていた。この先彼の旅がどんなものになろうとも、彼の中のデーデは鮮やかな笑顔のままだと、わかっているからだ。私とて、同じだろう。あの時、本の世界に没頭して感じた新鮮な感情は、今『アーヤと魔女』を読んでどう感じようが、色褪せる事など無いのだ。あぁ、「旅」はなんて自由で、心躍るのか。

     『旅のラゴス』を読んだ。
     私はラゴスの人生を追いながら、彼と共に旅をした。
     この本を読んで、私も私自身が進むこれからの旅を、楽しんでみようと思った。
     などとは言わない。全くもって、一ミリたりとも、そうも思わない。
     ただ、これから先、辿るであろう全ての「旅」に否定的でいたくはない。
     そう、思った。

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