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相棒
興水泰弘
朝日文庫/2007年
著読み手:...続きを読む
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進撃の巨人
諫山創
講談社/2013年
著読み手:私がこの作品に初めて触れたのは小学四年生の頃、コンビニの漫画販売スペースにて進撃の巨人第一巻がそこに鎮座していた。
当時の私はグロテスクなもの、ホラーなどは大の苦手であり、余りにも強烈な表紙は私を恐れさせた。しかし、一体どのような内容なのだろうかという好奇心が勝ってしまい、まだ規制が緩く立ち読みできた時代でもあったので、恐る恐る漫画を手に取りページを捲った。
内容は予想を遥かに超えるものであった。荒々しい筆致も予想外ではあったが、巨人が主人公の母親を生きたまま喰らうというあまりにも残酷な描写に当時の私は底知れない恐怖を感じ、本を閉じ、元にあった場所に戻すと慌ててコンビニを出た。
二度と、絶対に、一生この漫画は読まない。
私は心に誓った。
それから数年後、中学に上がる頃にはかなりの友人が進撃の巨人について知っており、度々私に感想を投げかけてきた。昔と比べてある程度恐ろしいものに耐性が出来てきたとはいえ、あのトラウマからは脱却できなかった私は読む気になれず適当に流していたが、そんな時にあることが発覚した。
進撃の巨人のアニメ化である。当時深夜にアニメがやっていることに気づいた私はよくアニメを録画してみていた。流石に漫画を読むのは厳しいが、アニメであれば観られるかもしれない。私は放映日の深夜にリアルタイムで視聴することにした。なぜ録画にしなかったのかというと、何だかライブ感のようなものを味わいたかったからという理由もあるが、深夜に一人で部屋を暗くしてリアルタイムで観るという枷を付けることによって、過去のトラウマを払拭出来るのではないかと感じたからだった。
そして時刻になり進撃の巨人が始まる。美麗な映像、勇ましいオープニング、テンポの良い構成。そして、あっという間に一話は流れていった。
私の一番の感想はこんな内容だったのか! である。巨人が人を喰らう描写が印象に残りすぎており、内容まで頭に残っていなかったのだ。
続きが気になる。
世界観や設定の面白さに虜になった私はあれほど恐ろしかった進撃の巨人を嬉々として観るようになり、漫画も読むようになった。そして最新刊まで読んでも謎が謎を呼ぶ展開で何一つ解決していなかったことに心の底から震えた。
そして月日は流れた。
進撃の巨人の中に散りばめられていた謎は丁寧に解き明かされ、2020年現在クライマックスを迎えている。あと数話で終わってしまうのだ。悲しいが、物語というものはいずれ結末を迎えるもの。最後までしっかりと見届けられるように死なないように努力しようと思っている。私はこの漫画がこの世界に存在してくれたことを本当に感謝している。少しオーバーかもしれないが、この漫画を読むために生まれてきたのかもしれないとすら思っている。それほどまでにこの進撃の巨人から学ぶことが多かったのだ。私が最初に思っていたようにこの漫画を巨人が人を喰らう残酷な漫画であると一蹴して読んでいない人が大勢いるのは間違いない。勿論そのこと自体に間違いはないのだが、問題はこの漫画が伝えようとしていることを履き違えていることにある。私も完全にこの漫画を理解しているとは言えないが、少なくともグロテスクな描写を見せて読者を恐がらせようというものが真意ではないことは理解している。それは私がこの進撃の巨人から人と人との関わり方や在り方について、深く感銘を受けたことから明らかである。ただ、人によって物事の捉え方は異なるので、私は飽くまで自身の心の移り変わりを証拠として未だ進撃の巨人を読んだことがない人に勧めたいと思う。
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僕がコントや演劇のために考えていること
小林賢太郎
幻冬舎文庫/2014年
著読み手:小林賢太郎の脳みそをのぞいてみたい。そんな好奇心から選んだ種本で、たびたび登場するキーワードを発見した。「面白い」「面白さ」「面白く」といった、「面白」という言葉だ。
ばかばかしいほどに笑えるものもあれば、ぐっと意識を集中させて観た後にじっくりと考えさせるようなものもある。それでも小林賢太郎の作品は、わたしにとってどれも確かに「面白い」。種本を通し、なるほど小林賢太郎の意図するままに「面白さ」を感じていると知ったわたしは、ふと焦燥感を抱いてしまった。
やばい、この本のジャンルがわからない。
書店でアルバイトをし始めてから、ジャンルキーなるキーの存在を知った。「文庫」や「実用」などに振り分けられたうちのどのジャンルに属する本が売れたのか、レジやレシートに記録するためのキーである。実はわたしは、この作業が苦手なのだ。形や価格表示で明瞭な場合は問題ないのだけれど、表紙や作者、分類コードを参考にしてもピンと来ない場合、つい手を止めて迷ってしまう。
鍵盤を押した瞬間に「間違えた」と気づくことも多い。むしろ悩んだ時に限って、押した直後にミスを悟るのだ。経験を積むにつれて少しずつ慣れてはきたものの、慣れほど怖いものは無い、というのが本音でもある。
種本を前にしたわたしは、どのジャンルキーをたたくべきか。コードに基づけば「随筆」となるけれど、いわば小林賢太郎の方法論が書かれている点を踏まえると、「実用」とも捉えられる。しかし、その方法論はハウツーというよりもあくまで小林賢太郎自身の思考にすぎないので、やはり「実用」ではないかもしれない。考えるうちに、もはやそのジャンルの曖昧ささえ小林賢太郎らしい気がしてきた。種本のなかで自らの職業を「小林賢太郎」と述べているように、肩書きやジャンルにとらわれず、ただ「面白」に取り憑かれた人が書いた本なのである。ジャンルなんて、考えるだけ無駄なのだ。
論より証拠ということで、まずは小林賢太郎の作品に触れてみて欲しい。ラーメンズ、小林賢太郎テレビ、カジャラ、こばなしけんたろう、エトセトラエトセトラ。手軽に触れられるものでも、「面白そう」と感じるものでも、その入り口は自由に開かれている。
嘘か真かよりも、「面白い」か否か。小林賢太郎にとっては、それがすべてなのだ。...続きを読む
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老師と少年
南直哉
新潮文庫/2009年
著読み手:「種本」。誰も彼もにあるわけではない、自分を形作った本。それは性格面かもしれないし、趣味の方向性や、はたまた読書の方向性を定めたものでもあるかもしれない。この企画の話が出たとき、幸いにも、私にはいくつか候補があった。
主が幼少期に読んだもので、絵本ならしろくまちゃんシリーズ、ぐりとぐら。うさこちゃんも大好きだった。児童文学なら『エルマーとりゅう』、『ロボットカミイ』、『おおきなおおきなおいも』、『ももいろのきりん』。もう少し高学年向けであれば、それは青い鳥文庫でおなじみの夢水清志郎シリーズやパスワードシリーズ、もしくは少年少女世界名作全集にあるような怪盗ルパン、シェークスピア。岩波少年文庫の『ナルニア国物語』や『ゲド戦記』。そして何より私にとってのバイブルだと言って差し支えない『はてしない物語』だ。
しかし今回、そのうちのどれをも、私が選ぶことはなかった。私をよく知っている人ならばおなじみの「どうせなら」の発動である。ここに挙げたそのどれもが、確かに私の人格形成に一役買っていると断言できるが、そんなものはそれこそ、「誰も彼も」である。仮に読んだことがなかったとしても、一冊くらい題名を聞いたことのあるものがここには並んでいることだろう。大衆がすでに知っている本で自分を語るのは簡単だが、そこにただただ迎合するだけならこんな文章は必要ない。
間違いなく私を形作り、価値観を書き換え、かつ誰かに読んでほしいマイナーな本。それこそが、私がこの企画を通してその魅力を知って欲しい『老師と少年』である。「どうせなら」誰も知らない本を使って、私の見せたことのない中身を曝け出してもいいのではないだろうか。ちょうど、卒業制作のテーマにも沿うことだし。(なお、この時点で完成していないのでとても慌てている。)
この本の作者は南直哉。この南という人は禅僧をしていて、つまりこの本は題名から察せる通り、禅問答に近い構成をして物語が展開されている。テーマは「死んでいくこと」、「生きていくこと」だ。私がこの本と出会ったのは高校生の頃だった。種本と言うには少し時期が遅すぎるような気もするが、実際にそこが私の思想のターニングポイントだったので仕方がない。
この文章を今読んでいるあなたは、果たして今までの人生の中で死について考えたことがあるだろうか。ぼんやりとではなく、自分が死んだ後、他人が死んだ後に思いを馳せたことはあるだろうか。何が変わり、何が変わらないのか。遺していったものはどうなるのか、今この瞬間死んでしまったなら、こうして思考している私はどこにいってしまうのか。私はある。あると言うより、もうかれこれ十五年ほどずうっと死について考える時間を持っている。それは精神的に非常に負担のかかることで、理由はそれだけではないが、私の自律神経をボロボロにするのに確実な一役を買っている。
対して、この本は、そうした私の擦り切れた精神を助けてくれる本だ。内容は掌編小説と言っても差し支えのないほど短い、老師と少年の応酬のみをつれづれに綴っているだけのものである。けれどその文体こそが、穏やかに、そして根拠のない希望などを示すこともなく、真っ直ぐ真摯にこちらの言葉に耳を傾けてくれるのである。それは、先に挙げた本のどれも、私にもたらしてくれることはなかった種類の安心感であるとも言える。...続きを読む
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翼を持つ少女
山本弘
創元SF文庫/2014年
著読み手:この企画では、種本の候補となる本を何冊か購入した。映画についての本や。私が敬愛する漫画家のこうの史代さん、藤子F不二雄さんの本を今回は購入本としてチョイスした。
他にも、今回本棚として展示させていただいている本はどれも私の大切な本であることは間違いない。
しかし私の趣味趣向を木とたとえ、その始まりの瞬間を種とするなら。この本を挙げないわけにはいかないであろう。という本が、私には一冊あった。それがこの駆け込みで購入した「bisビブリオバトル部」という本である。
この本の著者である山本弘さんという方は、私が青春時代傾倒した作家のひとりだ。そして山本弘さんに傾倒するきっかけになったのがこの本なのである。
この作品は、そのタイトルの通り。「ビブリオバトル」がテーマの作品である。ビブリオバトルとは、バトラーと呼ばれる人が複数人集まりそれぞれが5分間で持ち寄った本を紹介し。その後オーディエンスも含めた参加者全員の投票でチャンプ本を決めるというゲームである。
そのビブリオバトルを用いて、この本の中では様々なカルチャー書籍が取り上げられ広げられる。作者の山本弘さんのオタク的な見識がなせる技だ。その範囲は山本弘さんの主戦場であるSFについてはもちろん。特撮、アニメ、ノンフィクションからライトノベル、漫画まで多岐に渡る。
もちろんこの本の中で紹介される作品が、その時全て理解できていたわけではない。しかし取り上げられる作品の方向性が、自分の好きな作品の方向性と近かったのだろう。作中で自分の好きな作品について熱く語るキャラクターに、すんなりと思い入れることが出来た。
何よりこの作品が面白いのは、そういったオタク的なディティールが。それそのものとして投げ出されていないことである。作品の紹介やキャラクターの作品語りが、ストーリーやキャラクター設定と有機的に結びついている。作品紹介を主としたレヴュー作品は多いが。物語が指向性を持っていて、かつ作中で持ち出される作品が物語の推進力になっている作品はそう多くないだろう。
私は青春を星新一と山本弘に捧げたといっても過言ではない、中学時代に読んだ作品がのちの人生に大きな影響を及ぼしているという人は少なくないと思う。
だが、何より私がこの本を「種」だと思う理由は。この時期から明確に「掘る」という行動を意識し始めたことにある。例えば気に入った本の作家について調べ、他の作品を読んだり類似点を発見して楽しむといったことを初めて意識したのは。このころでなかったかと今思い返すと思うわけである。
そういったメンタリティをこの時期に育んだからこそ。今映画にハマって作品を体系的に読み解いたり、また小説などでももっと作家を意識した読み方が出来るようになったようにも感じる。
こうして思い返してみると、意識的にせよ無意識的にせよ。中学生という時期にこの作品を読むことが出来たのは、大きなことだったと改めて思った。...続きを読む
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わすれられないおくりもの
スーザン・バーレイ 著/小川仁央 訳
評論社/1986年
著読み手:友達とは、家族ほどに曖昧な名前であると思っていました。それは、あなたが呼んでくれるものなのか、私が呼んでもいいものか。『わすれられないおくりもの』は保育園児の頃から本棚にはあリましたが、読みたいと思い、手を伸ばした記憶はあまりありません。文字が多く、絵だけでは伝わらないそれが、もどかしく同じ絵本を何度も何度も繰り返し読み、読み終わった後は好きなページを開いてじっと見つめていました。それは今でも変わらなくて、でも、数ヶ月前、その〈わすれられない〉という引っ掛かりのある題が気になってしまい、床に寝転びながら本に指先を伸ばしていました。他の絵本よりも傷がなく、焼けていたりくすんでいたりもせず、でも、薄く埃がかかっていたことにほっとしました。
開いて、アナグマの死。頭が良いアナグマは、頭が良いからこそ自らの死を予兆していました。〈死〉からはじまる物語にも驚きましたが、スーザン・バーレイの描く穏やかな絵に乗せられて読み手もすんなりとアナグマの呼吸についていける構成に惹かれてゆきました。とうとう、アナグマの死を迎える仲間たち。アナグマの残したものといえば手紙だけ。それから、アナグマの〈友だち〉は亡くなったアナグマを失わないよう、思い出を解いてゆきます。〈死〉を考える者はいつだって残った人。友達とは、家族ほどに曖昧な名前ですが、とても簡単なカタチ。ただ、与えあう。たったそれだけのことでした。ものや気持ちだけでなく、
知識も、時にはアナグマのように〈死〉という考えも。いつの間にか膝を立て前屈みに絵本を覗いていた私は、モグラに切り紙を教えているアナグマがいる表紙をじっと見つめていました。...続きを読む
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ウチら棺桶まで永遠のランウェイ
kemio
KADOKAWA/2019年
著読み手:正反対の人間とは仲良くなれる気がしない。誰でもそうだろう。私は彼に出会った事はないが、彼の言葉の節々から正反対の人間である事がにじみ出ていて、地球が爆発しない限り同じ棺桶には行き着かないだろう。私はどちらかと言うと陰キャで、彼はおそらく陽キャだ。ちなみに、陽キャだ陰キャだ騒ぐのは大体陰キャで、陽キャは自分がどちらかわかっていない。さておき。自分が面白いと思った行動や価値観を全世界にシェアハピしようなんて私には到底できない事だ。私はkemioのユーチューバーとしての顔しか知らない。愉快な日本語をよく話す人。言葉の最初が小林製薬になる私とは大違いだ。「口から文化祭」とは良く言ったものだ。文化祭はザ・青い春の象徴というイベントなのに、彼のパリピ具合は嫌いじゃない。彼は日々、はっちゃけて生きている、ように見える。この書籍以外にも、彼の動画の中で、彼の性格の陽と静の同居が見られる。口から文化祭が生まれているのに対し、その言葉の一つ一つは決して軽くない。彼の口調は軽めだが、彼の言葉は勉強になる。何せ、語彙力の引き出しがたくさんあるからだ。本書の中でも「この会話の中でこの話が出てくるか?」「一体何を食べていたらそんな言い回しができるんだ」と感じられる部分が多々ある。エッセイは語り口調のものが多いと思うが、本書の場合は雑誌のインタビュー記事を読んでいる感覚に近い。彼特有の喋り言葉で永遠語られている本書は、経験や教養からだけでは身につけられ無い、面白い語彙がたくさん出てくる。おそらくホームステイをしている外国人が彼の言葉を聞いて覚えたなら、その人は祖国でギャルになるだろう。彼が生まれながらにして持つ、言葉の流れは他の誰にも取って代わられない。世の中にたくさん溢れる楽しさを彼が見つけた瞬間、世界はもっと面白くなる。
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東海道戦争
筒井康隆
中公文庫/1994年
著読み手:最近、本屋の中が血の海に見える。
私が若いうちから耄碌しているのかもしれない。しかし生憎、身体そのものは正常だ。ならば身体以外の私を形作るものが以前とは変わったということになる。
それは意識だ。
二一歳、大学三年生。この要素を踏まえた人間が見据える道標の最たるものは就職だ。就職、すなわち就活。私は「編集者になる」夢を叶えるために大学へ入学し、邁進してきたわけだが、ついに手に届くチャンスにまみえるラインに立っているのだ。
同時に夢だと思っていたものが現実としてあらわれる慄きを体感することになる。
徐々に現実を知るごとに、自分が勝手に描いていた理想とのギャップに辟易してくることも少なくない。
作家たちは自らの手で命を一枚一枚剥ぐように営々と物語を綴っている。そしてまた、編集者たちも血豆を潰すように作家の創作物を共に鍛えている。その努力の果てにようやく一冊の本が売られているのだと、ようやく知る。
今まで楽園だと思っていた本が人々の血肉を削ぐように作られたものなのだと。
私は本屋巡りが好きだ。本が並んでいる場所に向き合うと、自分の中で枯れて萎れていた苗木に水が与えられ、根が吸い込み、みるみるうちに若返っていくのを感じる。その場に立っているだけで呼吸がしやすくなった気さえする。本棚は私の生命の源なのだ。
しかし、ひとたび裏側を知ってしまえば、爽やかな雰囲気を醸していたそこはある時を境に重苦しい空気を纏うようになった。本棚に目を通せば息が吸いにくくなり、本に触れれば胸が締め付けられる。体感した最初こそ無自覚だったが、自覚してから原因を突き止めるまではすぐだった。夢が現実になりうるグロテスクを薄々感じ取っていたからだろう。
何も知らずにただ己の快楽に変換して貪っていたあの頃にはもう戻れない。
後ろを振り返ることしかできなくなり、静かに枕を濡らした日もある。あの頃の幸せをもう一度掴むために考えることをを放棄したこともある。それでも、「もう戻れない」という一種の清々しさからは逃れられなかった。
私はそれでも本に携わりたい。今持てる全てをかけて夢を現実にしたい。私のこれからの人生は全く想像もつかない世界が待っているだろう。自分はこの血の海に飛び込んで世界を泳いでいくのだ。...続きを読む
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正しい保健体育
みうらじゅん
文春文庫/2015年
著読み手:『正しい保健体育』という本がある。
みうらじゅん氏の著書の一つだ。
小学校、中学校、高校でそれぞれ配られる教科書に次ぎ、もう一つの教科書として、義務教育を終え正常に大人になった人は読んだ方がいい。正常にというのは、実年齢的なことではなく、精神的なことでもない。学校で配られる保健体育の教科書を当時読み込み、故に疑問を持ったまま成長した人のことである。現実の全部は知らず、社会に夢を持ったまま大人になった人ともいえる。
そんな正常に成長した大人は、正常に現実に向き合い正常に慌てるでしょう。ただ、慌てすぎないために『正しい保健体育』を読むんです。普通の保健体育の教科書は、優しさ全開オブラート百枚重ねなのです。だから、正常な大人や大人に成りたての皆さんはこれを読んでください。そして、正常に大きくなって正常に社会と付き合っていきましょう。私はただの大学生ですが、これを読んで人生が変わりました! 友人に勧めてその子も「人生が変わったわ!」と驚いて、今では毎日ポケットに入れて生活しているほどです。
(二十代/女性)※個人の意見です。...続きを読む
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9S
葉山透
電撃文庫/2003年
著読み手:『9S』について
じゃーーーーんみて! これ!
ねぇ、ちょっとそんな変な顔しないでよ。ひえっひえのオレンジジュースみたいな目しないで、ちゃんとこれみて。これ。
『9S』。……あ、思い出した?
この本ねぇ、大学の課題でちょっと本について考えてる時に思い出してさぁ。
ひっさしぶりに読みたいなぁ…! って思っちゃって。
ついこないだ届いたの!
あは、めちゃくちゃびっくりしてるじゃん。目、まん丸だよ。でもさぁ、懐かしいでしょ? 忘れたとは言わせないよ?
これ、小学生のとき、わたしがあなたに貸した本。初めて他人と同じ本を読んで、感想を言い合った本。
あなたの気まぐれで、「何か本読んでみたい」って言うから、当時読んでいた本の中からたまたま貸した本。
なっかなか返してくれないから焦ったんだよなぁ…。
あなたって趣味もあんまり合わないし、いつも何考えてるかわかんないなぁって思ってたから、この本を好きだって言ってくれたとき、驚いちゃったな。
この本より前に見せた本は全部難しいって言ってさぁ。全然そんなことないのに。
でもこれは違ったよね。
戦うヒロインがカッコイイって感想が一致したことも、続編を探して図書館や書店を探し回ったことも忘れられないんだ。
同じものが好き、一緒に続きを楽しみにしてる、ってすごくいいことなんだなって教えてくれた本。
あなたと本を紹介し合うようになったのも、その後に出会った友人と本を交換し合うようになったのも、この本がきっかけなんだよ。
だから、これが私の種本。もしこの本をあなたと読まなかったら、きっと私、一人で読書して本を楽しむ、ってやり方しか知らなかったと思うよ。
みんなで読書をする楽しさ、人と読書の感想を分かち合う経験を与えてくれた本。
ね、また本紹介するからさ、あなたの好きな本もまた教えてよ。
え、『9S』の続刊がみたい? 確か、学校の図書館には途中までしか無かったっけ。
そうだ、私の持ってる続刊、貸してあげる。いつかみたいに、また読み終わったら感想聞かせてよ。
わたしも持ってない巻があるなら、一緒に探しに行かない?
そんな楽しみ方も、ありだと思うんだ。...続きを読む
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蘇える変態
星野源
マガジンハウス/2014年
著読み手:芽吹ケ
診察室・先生が一人で次の患者を待っている
患者入ってくる
先生 今日はどうしましたか
患者 最近ね、頭痛くて。立ちくらみなんかも酷くて…
先生 あらら、とりあえず見ましょうか
患者 お願いします。これなんですけど
患者が帽子取ると頭には立派な蕾が育っている
先生 うわぁ。これはまた
患者 困ってまして
先生、写真をとる
患者 ちょっちょっ、何やってるんすか
先生 いや。立派だから、つい。ちょっと待っててください
「花」と呟きながら、そのままスマホを打つ
患者 ついってなんすか
先生 草W(SNS
に投稿) 患者 馬鹿にすんじゃないよ
先生 え…
患者 こっちは大変だっていうのに
先生、鼻で笑う
患者 今は鼻で笑った?
先生 笑ってないです
患者 そんなことより、これ治りますかね
先生 手術ですね
患者 手術ですか
先生 しゅ、手術です
患者 手術?
先生 しゅ、しゅじゅちゅ
患者 手術
先生 しゅ、しゅじゅt
・・・
先生、真顔になって
先生 やめましょう、しゅじゅちゅ
患者 やめるんですか!言えないからじゃ
先生 違います。辞めましょう。しゅっしゅ。辞めましょう
患者 いいですか。そうですか。
先生 一つ。薬を出しましょう
患者 薬ですか
先生 はい。と言っても物じゃありませんけど
患者 どう言うことですか
先生 いいですか。まず症状から説明すると、人はみんな必ず心に花があるんです
患者(指を指し)ここにですか
先生 そうです。これが、心に負担を掛け過ぎてしまうと心に栄養が無くなって、花自ら栄
養を求めて栄養が取れる場所を探し出すんです。それで、貴方の場合は遊歩した花の種は頭
にきてしまったというわけです
患者 人間の体ってすごいですね
先生 おそらくお花は光を探していたのか
患者 だから、太陽に一番近い頭
先生 かもしれません・・・
患者 それで、どうしたら治りますか
先生 簡単です。心でお花を育てられる環境をまた作ってあげる
患者 そんなことできるんですか
先生 もちろん、
患者に向き合って
患者 よかった
先生、急にすっごい笑顔
病人 ・・・? 白いすっごい歯を見せてくる
患者、見つめるが理解が出来ずにいる
患者 先生、あの、薬というのは・・・
崩さないスマイル
虚ろになった目を追いかけながら、先生は笑顔で自分の顔を指を指して
先生 薬
患者 うわっ!
患者、椅子から転げ落ちる
先生 大丈夫ですか
患者 急に何するのかともったら
先生 いやいや。結構大事なこと言ってるんですよ
患者 え、これが薬ですか!
先生 そうですよ。笑顔です
患者 笑顔?・・・笑顔のどこが薬なんですか
先生 だから、さっきも言いましたけど最近笑ってましたか?
患者 ・・・ああ、確かに。言われてみれば
二人の顔は笑顔になっていく
先生 おお!
患者 おお!
先生 (指を差しながら)ほらほらほら!
患者 わあ!
真顔に戻って
患者 わあ!じゃないわ
先生 ノリノリだったじゃないですか
患者 ちゃんと説明をしてください
笑い合う二人
患者の体がうづく
患者 あれ、おかしい。体が、なんか、
先生 も、もしかして!
患者 え、なんですか
先生 お花から何か感じませんんか
患者 言われてみれば、あ、あ、
先生 心じゃないのに、あ、
患者 咲いてしまう!あ!あ!
先生 あぁー!
ぱあと花が咲き誇るそして咲きこぼれる
先生 やっぱり、します!しゅじゅちゅ!!...続きを読む
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東海オンエアの動画が6.4倍楽しくなる本
虫眼鏡
講談社/2018年
著読み手:Youtuberの推しが、本を出しました。
小説でも、エッセイでもありません。初めて出会ったジャンルです。
私が紹介する本は、六人組Youtuber「東海オンエア」のメンバーである虫眼鏡が書いた、概要欄の傑作選です。『概要欄本』と呼ばれています。
はいはい有名人の本ねって笑った人、足の小指を角にぶつけることをオススメします。ただの推しの本だったらTwitterにでも書いています。わざわざここに書くぐらいには、私は虫眼鏡の書く文章が好きです。じゃあどこに魅力を感じたのか。
まずは文章の読みやすさ。
東海オンエアの視聴者は若者が多く、普段文章を読まない人もいます。その為虫眼鏡は難しい言葉を避け、誰にでも分かる言葉を選んで文章を書いています。短い文章なので、広告動画の合間などに概要欄を読むことが出来ます。
次に、話の流れ。
概要欄本に載っている回は起承転結があり、最後はふふっと笑える話が多いです。面白いだけではなく、知識を得ることが出来たり、メンバーについて知ることが出来たりもします。お得です。テンポも良くしっかりとしたオチがある事で、短い概要欄なのに読みごたえがあります。
最後に、概要欄のテーマについて。
話のテーマは基本的に動画に関係あるものが選ばれています。
例えば、『【なんだこれ】意味わからんものの使い方見ただけで予想大会‼』という動画の概要欄では、需要と供給のバランスから始まり、服は需要が少ないほど貴重という話に。
それを容姿に置き換えると、イケメンとチビではチビの方が需要が少ない(モテない)。つまり貴重、だからチビを大切にしてね。というオチです。
意味不明な物は買う人が少ない、という動画の冒頭と関連付けられた内容でした。
虫眼鏡はチビ担当なので自虐に近い言い方ですが、ただ「チビの何が悪い!」という話ではなく、「チビは貴重やん?」という話の持っていき方はとても面白いと思いました。
他にも、大あさりの動画ではラッコの話をしたり、こんにゃくの動画では栄養の無い食べ物の話をしたり。このように虫眼鏡の概要欄では、近いけどどこか少しだけ捻ったテーマの話を読むことが出来ます。
面白い話を書く事は難しく、それを読む人が多ければ多いほどさらに難易度は上がります。しかしそれを凌駕する虫眼鏡の発想力を、私はとても尊敬しています。この本は、虫眼鏡のことを知らない人にも発想の参考になるのではないでしょうか。Youtuberだから、と馬鹿にしないで一度読んでみてください。
私は、虫眼鏡のような文書が書けるようになりたいです。...続きを読む
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LoveLetter
おーなり由子
大和書房/2004年
著読み手:愛していた人への「好き」という気持ちが消えてしまうのはどういう時なのだろう。
今年、ラジオドラマの脚本を書くときにテーマにしたことだった。どうして愛が消えてしまうことがあるのだろう。どうして運命の相手だと思って結婚した相手と別れてしまうんだろう。好きという気持ちが続くにはどうしたらいいのだろう。
その好きという複雑な気持ちについて考えさせてくれ、「あぁ、だから好きなのか」という答えをくれる『Love Letter』という絵本に出会った。
この作品とは「すき。言葉にすると胸がいたくなるのはどうしてかな」というコピーに惹かれ、興味を持ったのがこの本との出会いだった。好きという気持ちがなくなることについて答えを出すには、反対の意味の好きになる理由や好きになる理由について知れればわかると考えた。
絵本は、見た目が少し変わっていて、誰にもいいところを分かってもらえない恋人に対し、私はこれだけいいところを分かっている。私の悪いところも受け入れてくれ、彼の弱いところも受け入れることが出来る。それが好きということだよね。というような内容だった。
この本で、私が好きな一節は、一つは先ほども書いたコピーにもなっている
「すき。言葉にすると胸がいたくなるのはどうしてかな」
二つ目は、
「風船玉みたいにふくらむきもち いつかこわれてしまう時がくるのかな」
という一節だ。
一つ目の文が好きな理由は、『好き』という気持ちは恋人などに限らず、愛おしい友達や家族にも抱くことがある感情で、その想いは甘い愛おしさだけではなく、好きという言葉だけでは言い表せない切なさ、愛していても手が届かない悲しさ、好きだけど、一番にはなれない悔しさ、片思いの時期を思いだすと溢れてくる苦い痛み。そのすべてが好きという感情から派生されたもので、好きという気持ちは決して優しく甘いだけではない。決して軽い言葉ではないからこそ、言葉にするだけで胸が痛くなってしまうんだ。ということがこの一説に込められていて、改めて好きという言葉を物語で表現するときはそこに込めたい感情や意味をより深く考えようと、改めて思うことが出来たからだ。
二つ目の理由は、どうして愛が消えてしまうのかなと考えたことがあるからだ。好きな人への気持ちが消えるのは一瞬だ。どんなに今まで好きだった相手でも、たった一言の言葉や一瞬の行動一つで気持ちが合冷めてしまうことがある。それは本当に風船が割れる時のようで、どんなに大きく膨らんでいてもあっけなく割れてしまうのだ。
だが、これは本当に二十年生きてきた中で片手で数えられるくらいしか恋愛をしていない私の、偏った意見だが本気で相手のことを好きではない。または好きなのだと思い込もうとして好きになった相手には、気持ちがなくなってしまうことへの恐怖を抱くことはないのだと思う。今、私はやっと心から大切に思う恋人に出会えたから、この一説にとても心を揺さぶられたのだろうと思う。
誰かに恋をすると、センチメンタルな気分になってしまうのは、私だけではないはず。愛する人へ気持ちを伝えたいけれど、言葉を紡ぐのはとても苦手。という方はぜひこの本を愛する誰かへプレゼントすることをおススメする。
いとしい心が、そのまま手紙になって誰かに届きますように。
誰かを愛したことがあるあなたへ。...続きを読む
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ヴァイオレットエヴァーガーデン
暁佳奈
京都アニメーション/2015年
著読み手:もしも。
もしも世界で一番綺麗な作品を選ぶとしたら何か。
これから先、人生を歩む中でもし誰かにそう問われたのなら。
私は迷いなくこれを選ぶだろう。
『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』。
私はこの作品に出会えて、心底から良かったと思っている。
『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は京都アニメーション大賞にて唯一の大賞を受賞しており、同会社によってテレビアニメ及び劇場アニメも制作された作品だ。
戦争が終結したばかりの世界を舞台に、元軍人である少女・ヴァイオレットが手紙の代筆人
として人々に寄り添う姿を描いた本作は心打たれる名作として高い評価を得ている。
私は恥ずかしいことにアニメを鑑賞してから原作に入ったのだが、すぐさま本作に魅了され
原作小説を購入。2020年に上映された劇場版にも足を何度も運んだ。
そんな私が書く拙文だが、もし本作にあなたが出会う一助となったのなら幸いである。
本作は原作版・アニメ版問わず多くの人を感動の渦へと物語だ。
例えば上巻の第一話目となっている『小説家と自動手記人形』には、メインの登場人物とし
て愛娘を病気で失った劇作家の男、オスカーが出てくる。
この時点でずるい。こんなの泣かせるぞと言っているようなものだ。
個人的なはなしになるが、私は初めてこの話を見た際、冒頭の時点で、「ああ、泣くだろう
な」となんとなく予感していた。
そして予感通り、私は泣きに泣いた。
あまりにも心はち切れそうな展開に情緒が全力でシェイクされた。
それほどに、氏の描く物語世界は美しかったのだ。
病に倒れた母とその娘の話。
死刑囚が最期に望んだ手紙の話。
そして、主人公であるヴァイオレットの成長を描いた話。
どの話もエンディングを迎えた時、またページをたぐり終えた時、心地よい読後感を覚えな
がら感嘆のため息をつかせられた。
きっとこれを読んでいるあなたの気に入る話もあるはずだ。
読者を引き込み涙させる魅力を持つこの物語がなぜ高い評価を得ているかと言えば、その一因には間違いなく著者の暁佳奈氏が持つ筆力が上げられるだろう。
氏はインタビューにて短編が得意だと述べているだけあって、情景から人物の心理描写まで
どの話も並外れた技巧を感じさせる。正直、同じ文章を書くものとして嫉妬すら覚えるほどだ。
近年、手紙という文化は今珍しいものになりつつある。
普通の手紙はおろか新年の挨拶でさえも年賀状を送るのではなく、電子メールやSNS、メ
ッセージアプリで済ませることが常識とさえなってきているだろう。
手紙。人の想いが綴られている紙には、普段は口にするのも難しいようなことだって書ける。
私たちにとっては久しく、後の世代にとっては縁のないものとなるかもしれないそれの素晴ら
しさを『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は教え、もしくは思い出させてくれる。
『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』。
穏やかな日差しの差す春の草原を思わせるこの名作を、私は永遠の宝物とするだろう。...続きを読む
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一発逆転お宝バトル
志田もちたろう
集英社みらい文庫/2019年
著読み手:本を読みました、と成人済の人間が言ったとして、たいてい思い浮かべるのは本屋の日本文学のコーナーや、新書コーナーに置いてある本だと思う。実際私がそうだ。
小学生の時分は競うように児童向け書籍を読んでいたはずなのに、気が付けばいつの間にか読まなくなっていた。児童向け書籍が置いてあるコーナーすら、気恥ずかしさがあって近付かないようになっていた。
また読んでみよう、と思ったのは、一年のころ授業で児童文学を学んだからだ。読む側でなく、書く側になると児童文学というものは意外と難しい。自分も子供だったはずなのに、子供が楽しめるような話が一気にわからなくなる。
今年の本棚企画には絶対に児童向け書籍を買おうと企んでいた。去年の冬くらいからだ。児童向け書籍をたくさん買って、本棚に並べて展示してやる。本棚の名前もすでに決めていた。「小学生の本棚」去年の冬くらいからだ。
しかし、コロナ禍。本棚企画もめちゃくちゃだ。実際に本屋に行くことができないからだ。憎むべきコロナによって、私の計画はすべて台無しになってしまった。
この『僕らのハチャメチャ課外授業 一発逆転お宝バトル』は、せめて児童向け書籍を一冊は買ってやろうという私の意地だ。表紙と挿絵は私が敬愛しているイラストレーターが描いている。選んだ決め手がそこだ。
自分が小学生のころ読んでいた児童向け書籍は、タイムスリップしたり、世界のどこかにワープしたり、親子で妖怪を退治したりして作中の事件を解決していた。
この作品は、もっと狭い規模で話が進む。学校の中。しかも、授業の一環だ。
ずいぶん規模が小さいな、と最初は舐めていた。しかし、知識と知恵をフル回転させてお宝バトルをする少年たちの熱さに、読んでいてこちらまで熱くなってきてしまった。まるで土日の朝にやっているホビーアニメを見ているような気分だ。わかりやすいストーリーなのに、そのストレートさが良い。
気付けば私は続刊の『僕らのハチャメチャ課外授業 一発逆転お宝バトル 帰ってきた超危険人物!』を調べていた。いったいどんな危険人物が帰ってきたのか気になってしまう。
今まで自分は児童向け書籍を買うことに気恥ずかしさを感じていた。けれど実際、何を読むか、について年齢はそれほど関係ない。読者対象年齢もあくまで目安にしかすぎず、そこから外れた人間だって、読みたいと思えば読んでもいいのだ。
大人が児童向け書籍を読んでも、子供が大人向けのハードカバーを読んでも、後ろから読んでも、途中で読むのをやめても、いい。
たぶん、私が思っているよりずっと本は自由に読むことができる。...続きを読む
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くものすおやぶんとりものちょう
秋山あゆ子
福音館書店/2005年
著読み手:私がこの本を選んだのは、候補の中で唯一、手に入れることができた絵本だからです。私にとって絵本は身近なものです。時間に追われて、長期間活字を読まない時期があると、リハビリとして絵本を手に取ります。特にこの本は一文が短く、物語も簡潔で、何度読んでも飽きません。実は、この本を一度手放したことがあります。とても気に入っていましたが、なかなか読む機会が持てず、迷った末、保育園に寄贈したのです。読まれないでコレクションにされるよりも、誰かに読まれ続ける方が本も幸せだろうと思いました。そこに今回の企画で、自分の種となる本を購入することになり、買いなおしたというわけです。
この本では、主人公であるおにぐものあみぞう・通称くものすおやぶんだけではなく、一の子分であるはえとりぐものぴょんきちが活躍します。今回はこのぴょんきちと、彼のモデルとなっているハエトリグモについて紹介します。
はじめに、この本はくものすおやぶんシリーズの二作目になります。シリーズとは言っても、一作ごとに話は完結しているので、どちらから読んでも楽しめます。今回は扱いませんが、一作目も十分面白いので、興味のある方はぜひ読んでみてください。
さて、この本の内容について触れていきましょう。
今回のぴょんきちは、なんと、仏像に変装します。仏像に変装したぴょんきちの挿絵はとても細かく描かれていて、本物の仏像と見間違えるほどの出来栄えでした。完璧な変装をしたぴょんきちは、あることを突き止めるために、一度怪しい集団に、わざとさらわれます。怪しい集団はぴょんきちが変装していることに少しも気付きません。しかし、あることがきっかけで、仏像ではないとバレてしまいます。その理由と結末は、直接本を手に取って、自分の目で確かめてください。
では、今度はハエトリグモについて説明します。
最初に断っておきますが、ハエトリグモは益虫です。いい虫です。ハエトリグモにもたくさんの種類がいて、そのほとんどがハエやカメムシ、ゴキブリを食べます。人間に害を及ぼすような毒を持つものはいません。クモのイメージにありがちな狩り用のクモの巣も作りません。体は小さく、一センチ前後のものがほとんどです。
そんな彼らを「キャー、クモだ。気持ち悪い!」と撃退してしまうのは、なんだか寂しいのです。虫が苦手なひと、虫に興味のないひとにも、彼らのいいところを知ってほしいのです。
先の説明を読んで、そしてこの本を読んで、「こんなかわいいやつなんだ」と思って、彼らをそっとしておいてもらえたらいいなと思います。...続きを読む
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銀色のマーメイド
古内一絵
中公文庫/2018年
著読み手:私がこの本を買ったきっかけは、私が一番好きな作者の古内一絵さんの作品だったからです。
主将を務めていた幼馴染の月島が不慮の事故で亡くなったことにより、続々と退部していく部員たち。主人公である龍一は、廃部を余儀なくされていた。
この小説は、ただただ廃部の危機を回避するために汗水垂れ流す青春モノの小説というわけではありません。物語の中で、主人公が想いを寄せている雪村襟香は、かなりの美少女として男子からの人気も高いのですが、実は性同一性障害に悩む一人の男の子でした。
そんな襟香を一人の男の子として、男子に混じって水泳のリレーに出場してもらうという現実ではなかなか考えられない展開へと広がっていきます。
LGBTQの問題は、とても繊細で難しいことです。ずっと女の子として見ていた相手に、実は自分の本当の性別は男だと言われても受け止めるのはとても難しいことだと思います。それでも、襟香を男として迎え入れ、友達としていることを決意した主人公は、とても強いなと思いました。
最初は、自分が泳げていればまわりのことなどどうでもよく、後輩の顔や名前も覚えていなかったような主人公が最後には皆に泳ぎを教え、まとめる立派な主将へと成長し、それに伴い、人としての器も大人へと一歩近づいていたのがとても素晴らしく、尊敬できる作品でした。
主人公もですが、他の水泳部員も、決して襟香をバカにしたり否定したりはしませんでした。
本編にて、水泳部に入ることとなった襟香は、迫る学区域戦に向けて泳げない後輩たちに懇切丁寧に指導をしていました。
そして、大会当日襟香が女であることがばれない為の作戦会議をしていた時のことです。
襟香は「どうしてこんなに認めてくれる?私がやろうとしていることは、おかしいのに」と言います。
それに対する皆の反応は、「雪村さんがいなかったら、ここまでの進歩はなかったもの」
「そうやで、俺、先輩がおらんかったら、今でも息継ぎできてへんで」
「僕も、ちゃんとしたフォームで泳げませんでした」
「別におかしなことじゃないですよぉう。私が入ってるもう一つの部活にだって〝僕ッ娘〟や〝男の娘〟は一杯いますし。」
と、部員それぞれの意見にばらつきはありますが、皆それぞれが言葉にせずとも、性別関係なく襟香という人間の実力を認めていたのです。
人間は、わからない物や事には怖いから蓋をしたり、拒絶してしまいます。それほどに、繊細な問題です。でも、水泳部の部員たちはそんなことは気にしていませんでいた。そうした自由で広い価値観を私たちも持てるようになっていきたいな、と思いました。...続きを読む
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こども六法
山崎聡一郎
弘文堂/2019年
著読み手:バカ、アホ、死ねと言われる。ムキになって、名誉棄損だ! と言い返す。
言葉の意味をよく知りもしないで、ただ、馬鹿にされるようなことを言われたらそういう罪になるんだろうな、というふわっとした認識のまま、相手を罪に問う。それが当たり前なのかどうかは別として、私の通っていた小学校ではしばしばみられる光景であった。覚えたての言葉を使いたがる子供のようだ、もちろん小学生なんて正真正銘子供に違いないのだが。
さて、では子供同士の喧嘩で「バカ」と言われた場合、相手を罪に問うことはできるのだろうか。答えはNOだ、バカと言われたからといって相手を罪に問うことなど不可能である。また、これらの罵倒は名誉棄損というよりは侮辱罪にあたり、加えてその侮辱が被害者、つまりは言われた側の社会的地位を落としでもしない限り、この罪は成立しない。では、なぜ名誉棄損などとのたまうのか? 答えは二つある。知っている言葉の中からそれらしきものを使っているだけであり、もちろん法律など知らないからだ。
そこで六法全書の登場である。この優れものは物理的な攻撃に耐え得る強度、そして重量を持ち、しばしば盾や鈍器として使用されるが、実際にはもう一つ用途がある。なんと、この分厚い本を構成するページの一枚一枚には、日本の主な法律――憲法、民法をはじめとした六つの法分野について詳細に記されているのである!
そう、六法全書はあらゆる意味で武器となる。この分厚い本の中身を知れば知るほど、日本国民はある意味では腕力にも勝る力を手に入れることができるのだ。
しかし、いかんせん言葉選びが難しく、二十歳に近い私ですら記載された内容を正しく理解するのに時間を要するし、出て来る単語の意味が分からず辞書やインターネットのお世話になることもある。それでも小学生よりは内容を理解できるため、どうしたって子供より大人の方が有利なのだ。
では、どのようにして子供たちは身を守ればよいのか? 法律という武器を手にした大人と、身一つの子供が対等に渡り合う術は果たしてあるのだろうか?
――ここでようやく『こども六法』が登場する。
本書は名前の通り、子供のための六法全書だ。掲載内容も子供に関係のありそうなものに絞られており、なおかつ小学生でも十分に理解できるよう噛み砕いた表現が使われている。何をしたらだめなのか、転じて、何をされたら怒っていいのか、相手を罪に問えるのか。
これは子供たちにとって大きな武器になる。大人相手に木の枝で戦わずに済む上、誰かに危害を加えられた時、正しく声を上げることが出来るのだ。そして何より、正しく威嚇できる。「あなたは私にこういうことをしたけど、それはこういう罪に問われるんだよ」といった風に、具体的な話が出来る。そしてこの具体性に、高確率で相手は怯む。本来許さなくていいことを、許さずに済むのである。
これを実践することで、もしかしたら可愛げのないやつだと思われるかもしれないし、煙たがられてしまう可能性だって大いにある。だが安心して、こども六法を開いてみてほしい。
可愛げがないからといって、人を罪に問うことは出来ないのである。...続きを読む
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陽だまりの樹
手塚治虫
小学館文庫/1981年
著読み手:『歴史には誰も逆らえない』
わたしは、手塚治虫さんの作品が好きである。実際、自宅の本棚の中には『アドルフに告 ぐ』『ブラックジャック』そして『火の鳥』が入っている。
なぜ、彼の作品が好きなのか。それは、現代の漫画が失ってしまった「何か」が彼の作品 にある気がするからだ。
今回、ブックツリーに当たって『陽だまりの樹』を選んだ理由はそこにあった。もちろ ん、晩年の傑作と呼ばれる作品で読んだことがなかったのもある。しかし、何よりも、現 代の漫画で失われた「何か」を探してみたい気持ちに駆られたのだ。
陽だまりの樹は端的にまとめると八巻にわたる「歴史漫画」である。 江戸から明治へと変わろうとする騒乱の時代。「人を救う医者」の良仙と「人を斬る武 士」である万二郎が、歴史の波に翻弄されやがて一つの結末を迎える。というのが簡単な あらすじである。
この流れがとてもよくできていて、ただの青年だった二人が必死に生き、どのような最後 を迎えたのかが丁寧に描写されている。先に書いた歴史漫画の通り、綿密な資料を基にし たと思われるシーンも多い。
また『陽だまりの樹』では手塚作品特有のスターシステムやコマに挟まれるジョークが極 めて少なかった(終盤に数か所あるだけである)。このことは、手塚さんが歴史をとても 真摯に扱おうとしたように感じられるだろう。
ここまで書いて、私の持っている手塚作品である『アドルフに告ぐ』『火の鳥』と『陽だ まりの樹』が共通していることに気が付いた。
それは、歴史の非情さである。上にあげた三篇は、どれも政治家ではない、教科書に載ら ないような主人公を扱っている。
もしかしたら、現代の漫画で失われた「何か」とは「歴史の非情さ」なのかもしれない。 手塚さんの幼少期を取り巻いていた「戦争」ほど非情なものはないのだから。...続きを読む
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とある飛行士への追憶
犬村小六
小学館/2011年
著読み手:「とある飛空士への追憶」という物語は、身分が低く差別を受けている、パイロットの狩乃シャルルとレヴァーム皇国皇子の許嫁のファナ・デル・モラル。この二人の空戦と身分違いの恋の物語である。
私はコミカライズ版から「とある飛空士の追憶」を知った。
小川麻衣子さんによる優しいタッチで描かれ、全四巻で完全漫画化されている。
キャラクターたちが生き生きとした表情によって描かれ、その場その瞬間の空気感を感じ取ることができる。
私は漫画を読んで、小説が原作だと知り小説も手に取った。
小説では端麗な言葉で物語が進んでいく。
この作品は新書にて加筆修正されており、ライトノベルに少し抵抗感がある人でも読むことができる。
ここからは私の、この作品から感じたことを書いていく。
まず、私は王道が好きだ。王道な物語が、とても好きだ。
主従関係が結ばれる話や、姫と勇者の恋愛とかも好きだ。
そんな私が、この作品を好きにならない訳が無かった。購入する前にレビュー等を見ても、「王道な物語」だと書かれている印象を受けた。つまり、私の好みという事だ。ためらいもなく購入した。
読み進めていくにつれて、実に自分好みな展開が続いていく。
しかし読み終わったとき私は、これは本当に王道だろうか? と感じた。確かに、ストーリー展開は王道だろう。しかし、何か少しだけ違う気がしたのだ。
最後、私は続きが欲しいと思った。私の抱くこのもやもやに、ストーリーとしての答えが欲しかったからだ。
そして、「とある飛空士への夜想曲」という本が出ていることも知った。
この本は、「とある飛空士への追憶」にて描かれた、敵サイドが主人公の物語だった。こちらも王道に近いストーリー展開で、「とある飛空士への追憶」を読んでいるからこそより分かる物語の奥行に圧巻された。終わりが明確にないからこその良さがこの本にはあるのではないかと感じた。
鮮明に見える風景とは裏腹に、最終的な彼らの行方は読者に明確に伝えられない。それがこの「とある飛空士への追憶」という物語の良さだと。「とある飛空士への追憶」は、アニメーション映画化されている。私はまだそちらには触れられていないので。今後購入してみてみたいと思う。
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旅のラゴス
筒井康隆
新潮文庫 /1984年
著読み手:その日、私は旅をした。
軽いトイレ休憩をはさんで、正味四時間の旅だ。
しかしまぁ、旅という言葉を使うのは適当ではないかもしれない。自室の机からトイレ以外に動いていないのだから。いやしかし、やはり私は「旅」をしたのだ。自身の想像力でもって、ラゴスと共に。それは作中の言葉を使えば、「転移」と言った方が適当かもしれないが。『旅のラゴス』を読んだ。
何度も見かけた事のある本だった。大抵は書店の店頭、それも入口すぐ辺りで。季節ごと、特に長期休暇付近で○○フェスなどと銘打っては、おすすめ本として売り出されている印象の強い本だった。私はその度に目をやり、また時には手に取って、そして棚に戻すのが常だった。理由は私の捻くれた天邪鬼さであり、大した事も無い臆病さだった。第一印象で気になった本も、その裏表紙のあらすじやパラパラと捲った本文に目を通して、今はまだいいかな。なんて何に対する言い訳かもわからぬ思いを抱きながら元の場に戻した事くらい、誰にだってあるだろう。ただその回数が、私は多かったというだけの話だ。
ラゴスと共に旅をした感想と言えば、いい旅だった、と。これに尽きる。別にいい事ばかりが起きたわけでは無いからこそ、彼の旅の一部分をここで抜粋して論じる事はしたくない。しかしそれでは、この文章を書き始めた意味を見失いそうだ。仕方ないから、あくまで自分がこの本を「第一印象で気になったのは間違いなかったぞ!」と思えた箇所を簡単に連ねておこう。
ラゴスの人となりは序盤から明確でありながら、彼の人間性は彼と共に旅をしていくうちに少しずつ見えてくる。主人公にわかりやすさとわからなさが備わっている状態は、のめり込みやすさを助長する。彼が老成し、故郷に近づいてからやっと、ラゴスの幼年期や性格形成が分かって来るのも、旅に出た若者が経験を積んで戻ってくるという、ド定番の型版の上にある筈の物語に全く飽きない理由の一つだろう。また、途中で明らかになる彼の旅の目的がはっきりしている事も行く末を見たいという思いを加速させる。その目的を達成した事が、後に実績として結果に出る部分も展開の不明瞭さを残さず気持ちがいい。「旅することが旅の目的」なんて言う、すわ自分探しの旅行気分野郎の自己満足もかくやといったモラトリアムに付き合わされている気分を、全く味わわずに済むのだ。だが。だが、ラゴスの旅は目的を達成した所では終わらない。ラゴスが故郷に帰っても、終わらない。そこもまた、ミソなのである。
ここまで振り返ってふと、はて『旅のラゴスは』SF小説だったのでは?と言われると、一瞬は不調子の機械の如く停止してしまう。しかしもう一度ゆっくり動き始めて、問いかけ直してみれば、確かにこれはSF小説だと言える。超自然的な能力や理解の及ばぬ仕組み、異空間と異時間が交差する中で、ラゴスは現在の文明と未知の世界を繋ぐポインターであり、実際に心身ともに「トリップ」する人間だ。ラゴスという、他でもない彼の一生を通すからこそ、この本はSF小説として成り立ち、また冒険小説に成り得、ラゴスの伝記にさえ成り得るのだろう。旅の終わりは、旅の始まりでもある。
図らずも現在、外出を控えなければならない時勢だから故に、『旅のラゴス』を読んだ事を「旅」と表したわけでもない。あれは旅だった。
しかしあえて読了後の今の気持ちをこう表そう。私は、次の旅に出てみたくなった。『アーヤと魔女』という本がある。
わかっている。ある一冊について語る文章を書く際、他の本を引き合いに出すのは、それが比較や引用の考察などではない限り、大分無粋だというのは。
だが気分を悪くせず聞いてほしい。何故なら私はこの本を、まだ読んでいないからだ。
好きな本というのは多くの人が持つものだが、私はある時期この本の作者が書くファンタジー小説に心酔していた。作者の名はダイアナ・ウィン・ジョーンズという。ラゴスが移住者の歴史を学ぶ際、愉悦が大きくなりすぎる事を不安に思って文学を並行して学ぶのを避けていたように、私も自らに図書館で一回に借りる彼女の本の冊数を制限していた事まである。当時小学校高学年だった私は中学に上がり部活動が始まって以来、図書館に通う回数も減っていき、いつしか彼女の本に触れる機会はめっきり無くなった。
あらかた読みつくしたと思っていた彼女の本『アーヤと魔女』の存在を知ったのは幾らか前の事だった。しかし私は、『アーヤと魔女』を読もうとしなかった。怖かったのである。思い出とは、美化されるものだ。それが良い思い出で、且つ思い出す頻度が多ければ多いほど。私は幼年期に読み、魅せられた彼女の世界観に、文章表現に、あれから時がたった現在の感性で向き合う事を恐れた。例えば雪が降っても全く喜色を浮かばせず、げんなりするだけの感性で。中年期のラゴスが、かつて少女だったデーデとの再会を希いながらも、その再会が惨めな結果、つまり互いに失望する事が無いようにと思っていたのと同じだ。私は、きれいなものはきれいなまま自分の中に取っておきたかった。
それは、『アーヤと魔女』を『旅のラゴス』と共にブックツリー企画を機に読もうと考え、本が手元に届いてもなお変わらなかった。こんな機会ないぞ、と意気込んだのにもかかわらずだ。
全く、『旅のラゴス』を読まずにいた時よりさらに酷い。
しかしながら、ラゴスと共に旅をした今、私はやっと、一歩踏み出し、その「転移」に挑めそうなのである。シュミロッカ平原に舞い戻った時、ラゴスは結局デーデとは再会できなかった。それどころか、自分と離れてからのデーデの不幸な運命を知った。そしてまた旅を続け、故郷ですべき事柄を全て済ませた老年のラゴスは、またデーデとの再会を夢見て旅立つのだ。彼の脳裏に描かれるのは、いつまでも少女のデーデであった。ラゴスはデーデとの再会の確証も彼女が少女のままで居る事も決して無いとしっかり理解している。それでも、デーデを想い戻る事の無い旅に出たラゴスは満たされていた。この先彼の旅がどんなものになろうとも、彼の中のデーデは鮮やかな笑顔のままだと、わかっているからだ。私とて、同じだろう。あの時、本の世界に没頭して感じた新鮮な感情は、今『アーヤと魔女』を読んでどう感じようが、色褪せる事など無いのだ。あぁ、「旅」はなんて自由で、心躍るのか。『旅のラゴス』を読んだ。
私はラゴスの人生を追いながら、彼と共に旅をした。
この本を読んで、私も私自身が進むこれからの旅を、楽しんでみようと思った。
などとは言わない。全くもって、一ミリたりとも、そうも思わない。
ただ、これから先、辿るであろう全ての「旅」に否定的でいたくはない。
そう、思った。...続きを読む
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鏡のなかの鏡
ミヒャエル・エンデ 著/丘沢静也 訳
岩波書店/1984年
著読み手:この本を開いて私はこの世界の美しさに感嘆の息が漏れた。
全世界の人が美しい世界だと言うのかは分からないが、私は確かにこの世で美しくそしてどこか空虚で幻のように幻想的な世界に魅了されたのだ。鏡のなかの鏡は短編小説だ。
いくつもの短編小説は内容面ではどこもつながっていないように見えるが最後の一つの要素と次の世界の始まりは少しだけ似通っているのだ。
その少しのつながりは鏡を現した「鏡」と表現している。
鏡のなかの鏡はこうも変わってしまうのだ、と。
その点だけ見てもかなり他の作品にはない特殊な作りとなっている。
だが重要なのは中身だ。
短編の一つ一つの内容はどれも非現実めいている。
どれもこれもどこかおかしく中々想像しづらいと感じてしまう。正直言葉の暴力と言っても過言ではない。
辻褄があっているのかも分からない。
それだけれど、文字の内容から全ての要素を掬い出して想像できる世界は独特の空気感とここでしか見えない景色があった。何故こんなにも美しく怪しい物語が書けるのか、疑問は絶えず自分を襲った。
そして、考え、自分で文章を書き写したりしているうちに、疑問は魅了に変わり、自分はさらにこの異質で理解の範疇を超えた世界に酔心していった。この物語はどことなく、「何か」に似ていた。
起承転結がなく、それでいて時に美しく、時に恐ろしい。
そんな、誰でも知っているであろう「何か」にだ。そう、そうだ、ああ、ああ!
思い出した、これは夢だ。
無意識の内に見るであろう、夢なのだ。
であるならば、この物語たちは著者の夢なのかもしれない
私達は彼の夢を覗いているのだ。
この本に書かれている物語は全て夢なのだ!
夢と言うのは物語としては到底、語れるほどの起承転結も設定も曖昧であることが多々ある。
だからこそ、夢の性質を前面に押し出している。
まるで起きているのに眠って他人の夢を覗くような気分に浸れること間違いなしだ。ぜひ、眠る前のお供として読むことを私はお勧めする。
この本はきっとあなたを夢の世界に連れ去ってくれることだろう。...続きを読む
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ねじまき鳥クロニクル
村上春樹
新潮文庫 / 1994年
著読み手:私の小説人生の始まりは、中学時代まで遡る。
当時の友人に薦められるままに始めた小説投稿サイトで、自分が思っていた以上に高い評価を得ることができたという経験が一つ。そして、ある本と衝撃的な出会いを果たしたことが一つ。
今回は、その本について紹介しようと思う。
おそらく、朝に読書の時間を設けている学校は少なくないだろう。私が通っていた中学も、そのうちの一つであった。
思い出すに中学二年の秋頃だっただろうか。小説を読まぬ母が突然その本を渡してきたのが出会いである。(最近になって判明したことだが、その本は母が友人から貰い受けたものだったらしい。母は自分では読まないから、と私に渡したのだそうだ。)
村上春樹著「ねじまき鳥クロニクル」。
私の小説人生に最大の衝撃を与えた作品である。
私はそれを朝の読書時間にコツコツと読み進めた。「ねじまき鳥クロニクル」は私が今まで読んだ中で最も長い作品で、かつ難しい作品でもあった。全て読み終えるのに三ヶ月以上かかった記憶がある。
意味がわからない。
書評にあるまじき文言だということは百も承知なのだが、それが私がこの本に対して最初に抱いた感情だった。
まず、この作品はわかりやすいジャンル分けができなかった。サスペンスでも恋愛ものでもなければ、青春ものでもない。謎といえる謎はあるのだが、それが解決したのかと言われればそうでもない。登場人物の目的でわけることもできそうなものだが、当の本人達が目的を聞かれて「わからない」や「教えない」と言う辺りやはりわからない。
更には、情景を想像することはできても、何故その状況になったのかがわからない、なんてこともしばしばである。現実の世界と妄想・精神の世界が前触れもなく入れ替わる、といった感じである。これが私を酷く困惑させた。読み進めるのに苦労した一番の理由と言ってもいい。
とにかく、わからないことが多すぎて印象に残っていると言っても過言ではないのである。
そして、大学に、文芸ライティングコースに入った今になって、私はこの作品が自分の中に残した爪痕を改めて確認することとなった。
初めてあの作品を読んでから三年以上経ち、またあの頃より多くの本に触れた最近。私はそれまでに読んできた本の数々を思い返す機会があった。その時、真っ先に思い浮かんだのは、やはり、この「ねじまき鳥クロニクル」だったのである。そしてこの時、私は初めてこの本の分析を試みた。なぜこんなにもこの作品に惹かれているのか、理由を得たかったのだ。
分析を始めてみたものの、やはり前からわからなかったところは分からずじまいであった。しかし、この本の魅力はなんとなくわかったような気がする。
大きな理由の一つは、登場人物達の「わからない」ところ。とにかく素性や目的のわからない人物が多いのである。そしてそれは、物語が終わっても明言されることはない。シナモンやナツメグは良い例だろう。彼らは問題を抱える主人公の前に突然現れたかと思えば、主人公がその問題を解決すると別れを告げて去って行った。なぜ主人公のことを知っていたのか、なぜその問題について知っているようだったのか、もう「なぜ」だらけである。登場人物の過半数はそんな感じなのだ。なにかをわかっている風な面をして主人公の前に現れ、そして去って行くのである。
わかることといえば、彼らは皆、主人公になんらかの影響を及ぼしたくらいだろうか。ある者は主人公の命を救い、ある者は主人公の命を脅かし、ある者は妻のいる主人公と(一度きりの)肉体関係を持った。
しかしやはり「わからない」の方が多いことには変わりない。けれど、私はこの「わからない」ことがこの作品の魅力なのでは、と思い始めたのである。
「わからない」ことが「おもしろい」。
分からずじまいで良かったのだ。それが私が出した結論である。現に、その「わからない」という衝撃が数年経った今も私の記憶に焼き付いて離れずにいるのだから、「心に残る作品」として正解なのだろう。...続きを読む
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エルマーのぼうけん
ルース・スタイルス・ガネット 著/渡辺茂男 訳
福音館書店/1963年
著読み手:『少年の憧れ』
幼稚園に通っていた頃、大好きな先生に「エルマーのぼうけん」を読み聞かせてもらった。元から“可愛くてやさしくて大好きだった先生”なのか、“エルマーのぼうけんを読み聞かせてもらって大好きになった先生”なのかは記憶が定かではないが。とにかく、「エルマーのぼうけん」は私が本を好きになったきっかけだった。今まで絵本しか触れたことがない幼児が児童文学に初めて触れた瞬間だった。
幼稚園の先生にエルマーのぼうけんを聞かせてもらってから、すみれ組ではエルマーのぼうけんごっこが流行った。ライオンのようにリボンで髪を三つ編みにして結んであそんでいたし、色の変わるチューイングガムで遊んだりもした。給食にみかんが出れば、みんなはみかんの皮まで食べた。私も食べた。苦かった。わたしはりゅうではないからだ。
私のカバンの中には、家と車の鍵、壊れかけのブルートゥースイヤホン、ティッシュと折り畳みエコバック、八千円ほど入っている三つ折り財布に、化粧ポーチ、ルーズリーフと授業の資料が入ったファイルに、クルトガやマッキーが入った筆箱。それとハンドクリームが入っている。ももいろのぼうつきキャンデーやむしめがね六つが入っているわけでもない。私はエルマーでもないからだ。なら、みかんを六十九こ詰め込めばエルマーになれるのか。そういうわけではない。
一つ、記憶にあることは、私はみかんの皮を食べられるようにすることよりも、リュックにみかんをたくさん詰め込むことを優先して挑んでいた。エルマーみたいに一人で大冒険をしてみたいとも思っていた。それが、叶ったのは高校二年生のときだった。その時は、エルマーへの憧れなど忘れていたが。年老いたねこが、私に話しかけてくれないだろうか。
私がこれを書いている間、日の当たる布団でくつろいでいた三毛のねこに話しかける。
「ハナ。」
ハナという名前は、鼻にほくろのような模様があることから名付けられている。ハナから返事はない。ただ、こっちを数秒見つめて、何もなかったように眠りはじめる。
もう一匹のタンスの上にいる灰色の毛並みのねこにも話しかける。
「ポロ。」
私と、ポロの、にらめっこが始まった。ポロという名前は、姉の愛車から名付けられている。なんとなく、風格や容姿から、お前はとしとったのらねこになれそうだなと思った。しかし、そういえばこいつは野良になったことなんかないと気付いてから、にらめっこが退屈になってやめた。やっぱり私はエルマーにはなれない。
この文章を書いてから、無性にミカンの皮を食べてみたくなった。
食べた。
苦かった。ルース・スタイルス・ガネット さく
ルース・クリスマン・ガネット え
渡辺 茂男 訳
福音館書店
『エルマーのぼうけん』(1963)
『エルマーとりゅう』(1964)
『エルマーと16ひきのりゅう』(1965)...続きを読む
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ドムーン
天久聖一 著
著
メディアワークス / 1999年読み手:鮮やかな表紙、意味のわからないタイトル。ページを捲るまでに与えられている情報はこれだけで、まるで内容の想像がつかない。表紙のみでは図録や画集のようにも思える。しかし、いざ読み始めると、先程まであれこれと考えていた自分がバカに思えてくる程にくだらなくて笑える、短編のギャグ漫画集である。セリフはほとんど無く、全て鉛筆で描かれている。手で擦れた汚れや消え切っていない余分な線までもしっかり見えている。
内容も、アイデアの着想から、どういった思考を辿って物語が作られたのか全く分からない突飛なものばかりである。しかし、鉛筆で手描きされていることもあり、親しみやすく読むことができる。小学生の頃、友達を笑わせるためだけに自由帳に描いたギャグ漫画のような破壊力が『ドムーン』にはあるのだ。
お世辞にも上手いとは言えない絵だが、内容自体はどこか優しいものが多い。野球の試合前の息子にお弁当を届けるためにラジコンを作る母親の話(『ラジコンかぁちゃん』)や、誕生日サプライズで祝うために敢えて喧嘩を売る不良少年の話(『ツッパリ西遊記』)などがある。ギャグが多用され、支離滅裂な内容だが、物語には作者の人間への愛を感じる。物語の人物に優しさを持って描かれたことが伝わってくる。つい、強烈なキャラクターの笑いに目がいってしまうが、『ドムーン』はそのような表面的な笑いだけではない。誰かを不幸に陥れて笑うようなものでは無く、人間が何かに夢中になっている姿を描くことによって笑いが発生している。人間味のある上質なギャグ漫画である。
しかし、優しいとはいってもギャグ漫画。読者の想像力をこれでもかと刺激し、予想の斜め上を行くオチが用意されている。私がこの漫画から受け取ったものは作者の表現に対する強烈な衝動で、内容から学んだことは特に無いのだが、だからこそ素晴らしいギャグ漫画であると思う。あとがきに書いてある、
「ひとつの無意味をやり終えて髪照らす月光に心委ねるとき、なぜかこみ上げる忠義心、男に生まれてよかった!底からそう思う。」
という部分を何度も読み返した。無意味なものに情熱を注ぐ人間はとても愛おしい。無意味なものが私は好きだ。くだらなくて、生産性の無い時間を過ごすことに私は幸せを感じる。人生の時間の使い方として非常に贅沢だと思うのだ。そんな私に『ドムーン』は250ページもの間、愛おしくて贅沢な時間をくれた。
読み終わった後、どんな内容だったのかよく思い出せなかったが、なんか今とんでもないもん読んだんじゃないか?と、振り返って怖くなった。...続きを読む
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詳注アリス
マーティン・ガードナー 著 / 高山 宏 訳
亜紀書房/2019年
著読み手:
すべては黄金の午後のことなどではない。夜、明るい空には満ちた月
やけに沁みるTHE ALFEE
涼しい風に包まれ独り
目指すはコインランドリーこれから初めて会いましょう
洗濯のついでなのは内緒
文房具の中にいた少女
あの作品のモチーフも彼女
あなたはまるでお山の大将?
うるさい外野は全部無視よ
出来上がりを待つ間は読書
とってもオシャレでしょ
開けば溢れる見事な文章
あなたのすべてがわかるでしょう
ついに始まる、最初は序詩よ
『すべて黄金の午後のこと……』あのこと
あまたの
アドベンチャー
あちらもこちらももうぐちゃぐちゃまわる
まわる
洗濯機
まわる
まわる
輝く月じゃぶ じゃぶ
NOボクシングじゃない
うなる ドラム
そうきれいにしておくれ
今宵気持ちのいい寝具で
しんぐ シング sing
歌って踊っては楽しいねさんざんな散歩
韻・ワンダーランド乾燥機禁止破った寝袋ふかふか
読めないアリス夢の中...続きを読む
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DEATHNOTEアナザーノートロサンゼルスBB連続殺人事件
西尾維新集英社/2006年
著読み手:『ロサンゼルスBB連続殺人事件』
高校の頃、図書室にずっと入り浸っていた。本が好きだった。そして、一面本に囲まれることの出来るあの空間が好きだった。多分、クラスに一人はいるいわゆる本の虫タイプだったのだと思う。図書室で借りてきた小説を読んで、授業中に泣きそうになったことがある。図書委員も何回か担当したし、ビブリオバトルや読書週間のイベント開催を手伝ったりしていた。そんな思い出深い図書室にあった本を、私は今でもありありと思い出せる。
本稿では、その中でも特に思い入れのある一冊について紹介しよう。「DEATHNOTE ロサンゼルスBB連続殺人事件」である。
高校の図書室の第二書架、入って右手の一番端の本棚に陳列されていたのをよく覚えている。
こちらは同名の漫画原作のノベライズ作品となっている。特徴的な装丁も、作中に出てくる死のノートを模したものだ。
ここまで読んで、なんだオタクの趣味の話か、と思った人は少しだけ待ってほしい。書き手がオタクであることは否定しないが、私はDEATHNOTEのオタクであったからこの本を手に取った訳ではない。初めは原作漫画作品を全く知らず、ただ面白半分でこの本を借りた。漫画のノベライズが、真面目なイメージの高校図書館に陳列されていることが当時はアンバランスで面白いことのように感じたのだ。そして、意味を理解しないまま目立つ装丁の本を手に取り、貸し出しカウンターへと持っていった。夢中になって一日もかけずに読了した。
その結果、西尾維新先生の文章と作品の世界観にどっぷりと浸かることになったのである。
この小説の概要を紹介するにあたって、まずはあらすじを説明しよう。時系列は原作漫画より前、つまり「キラ事件」が起きる前のことである。ロサンゼルスにて、任務に失敗し失意の中にあるFBI捜査官「南空ナオミ」。休職中、偶然にも彼女は世界的な名探偵「L」の手駒として選ばれ、彼と凶悪な殺人鬼「ビヨンド・バースデイ」の対決に巻き込まれてゆく。
ざっくり言えばこれだけである。だが、推理物をよく読む人は今のあらすじに少しだけ違和感を覚えたかもしれない。特に、犯人と探偵について。これは単なる推理物ではなく、最初から犯人は読者に提示されている。登場人物欄にも「犯人」としてビヨンド・バースデイの名の記載があるくらいだ。
必然的に、本作の探偵役であるLの役目は、従来のように犯人を探しトリックを見破るだけでは不十分となる。Lは犯人について分析し、連続殺人の法則を見つけ出した上で未然に殺人を防ぎ、ビヨンド・バースデイを確実に逮捕することが要求されるのだ。だがしかし、DEATHNOTEを読んだことがある方はお分かりだろう。彼は世界一の探偵であり、無闇矢鱈と人前に姿を現す訳にはいかない。万一にも彼が死ねば、何万件という事件を解決に導いたその優秀な頭脳が失われる。それは世界にとって財産の損失である……という事情で、主人公である南空ナオミがLの手足となって遠隔で捜査を担当する、というのが概要である。南空ナオミはLと共に難解な事件に挑む。その中で、時に奇妙な信頼関係を、時に自分の過去の後悔についてのヒントを、更にはFBI捜査官として復帰するための覚悟を得ていくのだ。
そして、なんと言っても目玉は謎解きである。推理ものでのネタバレはマナー違反であらご法度なので言及は控えるが、いくつもの驚きが読み手を待っている。特に、小説という媒体でないと描けない巧妙なミスリードが見所だ。原作に触れたことがある人もない人も、一読の価値がある内容と言える。
少々話は逸れるが、本との出会いは偶然がもたらすものだ。自分自身、何年も毎日大きな本棚に囲まれていても、結局一度も触れずに終わってしまった本もある。私が人生で読むであろう本の冊数は、この世にある本の量から鑑みればほんの僅かに違いない。だからこそ、高校生だった頃の私が興味本意でこの本を手に取ったことに感謝している。その日の私が選んだ本が、こうしてずっと心に残っているのだから。
そして、押し付けがましいが、この気持ちを是非書評を読んでくださっている方にも共有したいと思う。平たく言えば、機会があればぜひ読んでみてほしい。拙い文章では伝えきれない魅力が、この一冊の中に詰まっている。
私の書評をきっかけに、この小説に触れてくれる人がほんの少しでもいるなら幸いに思う。「ロサンゼルスBB連続殺人事件」を読了した時のあなたが、高校生の時の私と同じ表情になってくれるのがとても楽しみだ。
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ロビン・フッド物語
著, ローズマリ・サトクリフ / 訳, 山本史郎
原書房 / 2004年
著読み手:ロビン・フッドと聞けば、皆さんはどんなロビン・フッドが思い浮かぶでしょうか。
狐のロビン・フッドだという人もいれば、某ゲームのロビン・フッドをイメージする人もいるかもしれない。はたまた、私の知らないロビン・フッドかも。私の初めて出会ったロビン・フッドはこの本でした。ローズマリ・サトクリフのロビン・フッド。
この作品ではロビン・フッドをはじめとする、沢山の仲間が出てきます。圧制に屈することなく、沢山の仲間と一緒に自然豊かな森の中で暮らす。そんなロビン・フッドの一生を書いたお話。
ここでは、軽くロビン・フッド物語の背景について触れておこうと思います。歴史を知らなくても、十分に楽しむことはできる。私がこのロビン・フッド物語を読んだときも、歴史背景はまったく知らなかった。でも、十分に楽しめました。しかし背景を知っておけば、より一層ロビン・フッドの世界に浸ることができると思います。この文章はそういったことに興味がある人に読んでいただければ幸いです。ロビン・フッドは中世において、吟遊詩人などに唄われるバラッド「物語唄」を介して広がりました。バラッドの雰囲気を感じられるかなと思い、冒頭部分のみですが、こちらの訳文を置いておきます。
いざ聴き召され紳士方 LYTHE and listen, gentilmen,
自由生まれの殿方よ That be frebore blode;
語りいだすはかのヨーマンの I shall you tel of a gode yeman,
ロビン・フッドの物語 His name was Robyn Hode.
ロビンこの世にありしとき Robyn was a prude outlaw,
誇りも高きアウトロー [Whyles he walked on grounde;
いまだこの世に見当たらぬ So curteye an outlawe] as he was one
礼節ふかきアウトロー Was never non founde.
原文:The Child Ballads:117.The Gest of Robyn Hode
訳文:上野美子著『ロビン・フッド物語(岩波新書)』(一九九八年、二三―二四頁)より誇り高き、礼節深きアウトローっていいですよね。
では、歴史背景について触れていきましょう。
ロビン・フッド物語の舞台になっているのは中世イングランド。ロビン・フッドという人物が実在していたかは定かではなく、複数の人物の集合であると考えられています。
この物語は一九九〇年代に書かれたものなので、獅子心王リチャードの時代になります。
もっと前の時代だとエドワード一世の時代だったり、侵略してくるノルマン人に対抗するサクソン人という構図とかになるのですが、この話では関係ないので割愛します。
この話の中でロビン・フッドは、獅子心王リチャードが十字軍遠征に向かい、その間治世を任された弟の欠地王ジョンの暴政、圧政に反抗した義賊、アウトローとして描かれています。
しかし、ロビン・フッドも最初からアウトローだったわけではありません。
ロビン・フッドはイングランドのヨーマンでした。ヨーマン(Yeomen/独立自営農民)とは、古くは貴族の従者を指していました。十四世紀後半において、裕福な土地保有者として登場。貨幣地代の一般化などによって、小作人たちもヨーマンへと昇格していきました。十五世紀ごろには騎士に次ぐ社会階級の一つとして台頭し、近代以降のイングランドの社会を左右する勢力になりました。
物語中でも軽く触れられていますが、歴史上のヨーマンはこのような存在です。
そんなヨーマンであったロビン・フッドがなぜ、アウトローになったのか。それにはこの時代にあった御猟林が深く関わっています。
イングランドの森林は一〇六六年のノルマン人による征服以来、御猟林法(のち御猟方憲章)によってイングランド王家の管理下におかれました。御猟林指定地域では植物の伐採や開墾、狩猟、無断での侵入などは、死刑や両腕の切断などの身体刑や権利の剥奪で厳しく罰せられました。御猟林を巡る政府と庶民の対立は中世を通して大きな問題であり、悪政の一つとして庶民の不満の種でもありました。
御猟林制度について触れるのは、これくらいにしておきます。もっと詳しく知りたい方はぜひ調べてみてください。ロビン・フッドは自分が留守にしている間に、ギズボーンのガ
ガイによって、王の鹿を射ったと虚偽の発言をされてしまいます。
中世イングランドには刑罰の一つとして、社会共同体からの排除がありました。排除されたアウトローに対し財産を奪おうとも、危害を加えようとも、例え殺害しても、加害者は罪に問われることはありません。十三世紀までのアウトローへの加害を無罪とする規定は排除されるものの、アウトロー制度は中世イングランドの社会問題になっていました。
彼ら「アウトロー」の多くは社会から逃れるため、森林に隠れ住みます。王家の管理する森林に立ち入れば厳しい罰が待っているため安易に手が出せない。故にアウトローにとっては逆説的に絶好の隠れ家になりました。アウトローは御猟林の獣たちを狩り、司直の手を逃れ、街道をゆく人々や近隣の村を襲ったりするなどして恐れられていました。しかし同時に、法の支配を逃れて権力に従わない彼らを英雄視する風潮も強まっていったのです。このような歴史背景があって、ロビン・フッドの物語は進んでいきます。
残念ながら、ローズマリ・サトクリフの『ロビン・フッド物語』はすでに廃版になっているらしく、中古で購入するか借りることでしか読むことはできません。
現在では沢山の本が存在し、その出会いは一期一会に近いものだと私は思っています。もし見つける機会がありましたら、手に取って欲しいなと思います。そして数ページ読んでみてください。きっと素晴らしい出会いになるでしょうから。...続きを読む
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ヨハネスブルグの天使たち
宮内悠介 著
早川書房/2013年
著読み手:文章を書いている人ならば誰しも読んでもらいたい人がいるはずだと思う。自分はいつか母親に自分の文章を読ませたいと思っている。母曰く長い物語は眠くなるらしい。
だったら短くすればいいのでは? そういう考えに至った。しかし短編は意外と難しい、伝えたい事を入れると文章が長くなってしまう。課題で書いている作品よりも文章の情報の取捨選択がシビアになっていくと感じた。
そう言った作品の中で自分の好きな物、個性をどうやって出していくのか、も問題になってくる。自分の好きな物はSF、どうしても説明過多になってしまう。説明を省いたら物語自体、分からなくなってしまう。そこを上手く、やりくりするのが文字書きのやる事だと言われると、ぐうの音も出ない。
今は勉強中という事でそういった所は甘く見てほしいと感じている。
そこで出会ったのがこの作品だった。この作品は短編だけど長編、自分の中では初めての出会いだった。普段ライトノベルしか読んでおらずそれと比較するとハードノベルと言った所だ。文庫一冊なら頑張れば三時間程で読み終えられるがこの作品は一週間弱かかった。
先ほど言ったがこの作品はハード、物語が堅いなと感じた。前知識無しでどれだけの人がヨハネスブルグのことを知っているだろうか……ほとんどいないだろう。事実自分もこれを書いている今、画像検索をかけたところだ。しかしこの作品にヨハネスブルグがどうのというのは、ほとんど関係無く、その場所がどこにあろうとも物語は進む。作品の本質は別でそれぞれの正義から起きる争い、テロなどを根幹に持ち、それにSFが共存していると言った作品であった。作品を読むにつれ自分の中の作品はSF でSFを書く事が多いと感じた。
自分自身のSFをSFで分からせるのでは無く他の題材を持ってSFを理解させる、のだとこの作品から学べたと感じた。
まず手始めに、この文章を読んでもらわなことには始まらない。
そういう感じで文章を終わらせたいと思う...続きを読む
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万能鑑定士Qの事件簿
松岡圭祐 著
著
角川書店/2010年読み手:好奇心に終わりは来るのだろうか。
私は小さい時から本に囲まれる生活だった。とてもありがたいことであるし、中々ない環境だっただろう。
毎月保育園でもらえる絵本、本棚に入り切らないほどの図鑑や歴史書、親が大切に飾っていた漫画本や小説。
そのどれもが汚しさえしなければ読み放題だったし、頼めば読み聞かせや解説もしてくれた。そうやって幼少期を過ごしていたからか、私の読書に対するハードルはほとんどないようなもの。小学生、中学生のころは図書室に入り浸っては面白そうな本面白くなさそうな本を手当たり次第に読んでみるという生活をしていた。
そんな時に出会った本が『万能鑑定士Qの事件簿』である。
裏表紙のあらすじには知恵がつく、人が死なないミステリなどと書かれているではないか。
なんだこれは!
これが私の初めて本を見つけたときの感想である。
文庫本サイズで、知恵がつく?ってなんだろう。そもそもタイトルにアルファベットが使われていてそれもしっかりと気になってしまう。
当時からミステリーなんてほとんど読んだことない私であったがついつい手が伸びる。
やめておけ、事件簿って言うくらいだからきっと中身は難しいぞ、という私の心の声と、みぞおち辺りが沸騰するような期待感が相反するのだから困ったものである。
気づけば私はその本を借りていた。結局、好奇心には勝てなかったのである。
作品名から鑑定士という名前が出てくるとおり、主人公は鑑定士で、それ故に知識としてたくさんの古物、鑑定方法に関するものが出てくる。そしてそれらの情報を駆使して依頼人の謎を解いていくのである。
私の今まで知らなかった分野の知識。恐らくこれから日常的に使うことはないだろうとは思うがこれが全くおもしろい。
そもそも鑑定士って何するんだろう、ぐらいの情報から入ったものだから、一つの作品に出てくるたくさんの知識のために、何度か読んでやっと何となく分かった程度だった。そのためまた違う参考書などで少し調べたりして知識を補完したのである。この知識はなくても十分に面白く読める本ではあったが、この本によって知識欲が刺激された結果であった。
知らないことを知るのは楽しい。やはり好奇心に終わりなどなかったのだった。
そして、この本は私の新しい分野への好奇心を誘ってくれた一冊だった。
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恋する原発
高橋源一郎 著
著
講談社/2011年読み手:インタビューなんかしている場合ではない。続々と詰めかける、「フクシマ第一原発前集団セックス」参加者によって、広場は徐々に埋め尽くされてゆく。
エダノ官房長官がいる……。ホソノ原発担当大臣がいる……。ヤマモトモナはいないけど……。オザワイチロウがいてハトヤマユキオがいてマエハラセイジがいる。もちろんタニガキサダカズがいてイシハラノブテルがいてコウノタロウがいる。エリザベス女王がいてアサハラショウコウがいてホーキング博士がいる。クロサワアキラとディズニーとパゾリーニが抱擁している。フセイン元大統領とブッシュ元大統領(父と息子)が抱擁している……。ミヤザキハヤオがいてアンノヒデアキがいる。カヤマユウゾウがいる。オオバクミコがいる。もちろんアカイヒデカズがいてイワサキヒロミと抱擁している。コヒナタフミヨがいてヨネクラリョウコがいる。シャクユミコがいてアリヨシヒロイキがいてカンダウノがいてコイケエイコがいる。カハラトモミがいてタケウチユウコがいてホシノアキがいる。キクカワレイがいる。イトウヒデアキがいる。ヤスダケイがいてトモサカリエがいる。カネコケンがいてスズキサワがいる。アイカワショウがいる。サツキミドリがいてコバヤシアキラがいる。ハギモトキンイチがいてツジノゾミがいてフカダキョウコがいる。ニシコリケイがいてキムラフミノがいてサカグチケンタロウがいる。フクハラアイとイノウエマオが手を繋いでいる。エイクラナナがミウラショウヘイと接吻をしている。キムラサオリとミヤノマモルが抱擁している……。チバユウダイとタベミカコが抱擁している……。トダエリカとカンダサヤカが抱擁している……。スガケンタとイトウサイリが抱擁している……。だんだん書くのが面倒くさくなってきた。あなたが知っている有名人はみんないるはずだ。だって有名人を1万組・2万人集めてくれって、ジョージに頼んだから……。
※下線部は筆者による加筆。
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私が選んだ本は、「相棒」。ドラマでよく見かけるあれだ。選んだ理由は特になく、強いて挙げるとするのならば、別に買いたい本がなかったからだ。だからこの本を受け取った時には単純に要らないなと思い、捨ててしまおうかとさえ思った。
元々ドラマの方は見たことがあって、それが活字になったとなるとやはり読む気がしなかった。この課題があるからと何となくページをめくり、数行を読み進めた。最初はただただ苦痛で、何の面白みも感じなかった。見開き一ページが真っ黒に見えた。しかしそれから段々とキャラクターたちが動き始め、知っている者たちが登場してくると、ページをめくる手は加速していった。あのキャラクターはこういう風に描かれているのか、ここはこういう風に表現するのかと様々な感想を抱き、薄い文庫本の半分を一夜で読み進めた。活字離れしている私の自己ベスト。
何となくで選んだ本に、ここまで魅了されるとは思っていなかった。久し振りに夢中になれるものと出逢った。一ページごとの濃密な内容、個性豊かなキャラクター。どれをとってもこの一冊の魅力だと思う。ドラマとは違う表情、どんどんと深みにはまっていくのを感じていた。久し振りに活字を読むこと楽しくて、時間を忘れていた。
冬の乾燥した空気と冷たく冷えた床。この本を読み終えたときに、私は思わずため息をついた。この面白いものを読み終えてしまった、もうこの先は読むことが出来ないから。
もちろんそれもあるだろうが、何より感動したからだ。涙を流すような感動と異なり、ため息しか出ないような、感心に近い感動。名作の映画を劇場で見て、エンディングが終わって辺りに静けさと騒がしさが戻ってくるあの感覚。幸福感と満足感に心が満ちていた。寒い室内で胸の中だけが温かく、不思議な気持ちだった。本を閉じて、カバーをめくる。意味のない行動を繰り返す理由は自分にもわからない。ただこの本に触れていたかったのかもしれない。物語は終わったはずなのに、この本に触れているだけでまだ物語が続いていくような感覚。この続きを早く読みたい、この続きの物語が気になるというよりは、一秒でも長くこの作品に触れ続けていたい。ただそれだけだった。
久し振りに夕方にテレビをつけた。再放送でドラマをやっていた。CMを見た。再放送でないドラマを見た。本の内容や表現とは違う内容。媒体によってここまで表現が異なるかと、また改めて本を読み返した。何度も読んだはずの一文がまた違って見えた。一冊の本がここまで心を満たしてくれるのか、愉しませせてくれるのか。私が何となくで選んだ一冊は、一言ではとても言い表すことの出来ない一冊。この一冊に出逢うことが出来たことを幸福に感じる。
私が選んだ本は、「相棒」。ドラマでよく見かけるあれだ。選んだ理由は特になく、強いて挙げるとするのならば、別に買いたい本がなかったからだ。だからこの本を受け取った時には単純に要らないと思った。だけど今は、この本をこれからも大切に保管していこうと思う。